2015年11月9日付の作文~前田瑠美(旧姓 荻田瑠美)による聞こえよがし・これ見よがしにより俺はどんな目にあわされたか。または、俺の体はいったいどうなっているのかということについて~

 俺は、心の感じる部分が固まってしまっているという、“病気”というか、“障害”というか、そういうものを抱えている。俺の体は、そういう体だ。

 聞こえよがし・これ見よがしは、この、心の感じる部分が固まってしまうという絶望的な体になる、引き金になった。聞こえよがし・これ見よがしによって、俺は、胸に、グーッと力を入れるようなことをしてしまい、これを2週間ぐらい続けてしまい、心の感じる部分が固まってしまうという、この病的な体になってしまった。つまり、聞こえよがし・これ見よがしは、俺が、こういう体になってしまうきっかけであり、「引き金」だ。

 俺は、心の感じる部分が固まっているというのは、妄想とか、脳の何らかの原因からくるものとかいうより、もっと具体的な、肉体的な、胸の奥の方というか、腹の底の方というか、そういうところにある「心の感じる部分」が、いわば「固まっている」という、そんな感じで、自分の体の実感として、とらえている。脳というより、体のどこか、「胸の奥」とか「腹の底」とか、その辺に原因があるんじゃないか、そんなふうに俺は見ている。もちろん脳だって体の一部であり、すべてがつながっているわけだから、脳が全く関係ないと言うつもりはない。

 「心の感じる部分が固まってしまっている」というのは、病的な俺の体の実感を、あえて言葉で表現するとそいういうふうになるという、そういうもので、便宜上のものだ。分かりにくいんだけど、言葉で表すとそういうふうになる、ということ。

 とにかく、俺は、“病気”になった。

 聞こえよがし・これ見よがしは、心の感じる部分が固まってしまった状態、つまりこの病的な状態を、悪化させる原因になった。“病気”になった後も、1年以上にわたって、聞こえよがし・これ見よがしにいじめられ、“病気”がさらに悪化したように思う。まあ、聞こえよがし・これ見よがしだけじゃなくて、この訳のわからない“病気”になってしまって、もがき苦しんでいろいろやるうちに、俺の体の状態は、本当にひどいものになってしまった、取り返しのつかない、どうしようもないものになってしまった、というところだろう。

 心の感じる部分が固まってしまっているという“病気”を治そうともがき、聞こえよがし・これ見よがしを繰り出してくる側とたたかっているうちに、尋常じゃない行動に走ることもあった。具体的には、ずーっと、しゃがむという、四六時中しゃがむという、それを何日もやってしまった。これによって、具体的には、肺に穴があくという、自然気胸という病気になってしまった。両肺に穴があいてしまった。外科手術を受けた。

 もうひとつ、これ(“病気”になったこと)によって、具体的なことがある。左側の睾丸のところが垂れ下がり、痛みを覚えるようになった。泌尿器科診てもらったが、特に病気という診断はされなかった。しかし、左側の睾丸は、右側の睾丸(健康な状態のもの)にくらべて、大きさが半分ぐらいになり、なんて言うのかしらないが、睾丸のあたりからつながっている、くだ的なものが、太くなっている状態になってしまった。今は落ち着いているが。

 心の感じる部分が固まってしまったことによって、人間にとって一番大切なこと、心で感じることが、分かりやすく極端な言い方をすれば、できなくなってしまった。いわば、心で感じることができない、という、“障害者”になってしまった。内科で、胸のCTを撮って診てもらったが、異常は見つからず、精神科の病院に通院している。

 俺のこの、病気というか、障害というか、これの治療法は、自然治癒力しかない、と俺は見ている。外科手術でも治らない、内科的な薬でも治らない、精神科的な薬でも治らない。東洋医学はどうかと思い、本とかネットとか少し見たが、どうも、これも、あまりいけそうな気がしない。残るは、人間に本来備わっている自然治癒力。傷口が、かさぶたになり、やがて治っていくように、自然に治ろうとする力。これに頼るしかないと思って、これまでやってきた。

 この体になってから、28年になる。この間、試行錯誤しながら、自分で、こうすればいいんじゃないか、と考えたことを、やってきた。実家で“療養”し、「体を治す」、これだけを考えて、28年間やってきた。28年間、必死に闘病してきた。

 心の感じる部分は、今も、固まってしまったままだ。これからも、自然治癒力を頼りに、闘病していくしかない、と思っている。

(一部補足)